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生の流れとともに行き、 川とともに行きなさい OSHO

私はあなた方にこのように言った。
自分自身を愛しなさい。
自分自身を愛せない人は、
他のどんな人をも愛することができないと。

ゆえに私はあなた方に言う、利己的でありなさいと。
なぜなら唯一利己的な状態からだけ、
利他主義が生まれるからだ。

だがあなた方は、本当に価値のない
価値観を教えられてきた。
あなたには価値がないと、
そのままのあなたには何の価値もないと
聞かされてきた。

つまり、あるがままのあなたは地獄であると。
あなたは立派でなければならず、
あなたは変わらなければならない。
あなたは聖人に近くなり、
あれやこれや優れた者にならねばならない。
そこでは一つのことが確実だ。

それは、あるがままのあなたでは、
そこにはどんな価値もないということだ。
あなたはどうやって自分自身を
愛せるだろうか? 

自分自身を愛せず
自分を憎み、嫌う時、
あなたは他のすべての人々を嫌い、憎んでいる。

彼は全世界を憎み、
自分自身を憎むことで
生に対して否定的になる。
そして生に否定的な人は、
生に対して破壊的だ。

いわゆる僧や尼僧たちは、
誰もが生に対して否定的だ。
彼らは生を肯定しない。
生を育まず、生を美しくしない。
彼らは世界を祝福して来なかった。

彼らは呪って来た! 
いわゆる修道院は消え去るべきだ。
私たちには修道院は必要ない。
確かに私たちにはサニヤシンが必要だが、
彼らは世界の一部となり、
世界を変えることで生きるべきだ。
そして、
起こるべき基本的な変容は、
自分自身を愛する者であるべき、
ということだ。

自分自身を愛さない人はマゾヒストになる。
つまり、自分自身を苦しめるようになる。
そして、こうしたマゾヒストたちは、
古来より聖者として崇拝されて来た。
マゾヒストである人は、
一方でサディストである。

なぜなら自分を傷めつける人は、
あらゆる他人を痛めつけたがるからだ。
しかも痛めつけることは、
彼の神への捧げ物になる。

この両者がしばしば同一人物であるのは
いつものことである。
あなたは自分自身に対立して反対し、
他人に反対するというようなやり方で、
あなたの宗教によって条件付けられてきた。

つまり一方で、
あなたは素晴らしい合理的思考で
自分自身を苦しめ、また他方で、
その考え方で他人を苦しめる。
彼らにとって、
今や生というものは拷問部屋に、
強制収容所になってしまった。

もはやそれは生きるという祝祭ではない。
それは本来、祝うべきことだ。
もし自然に自分自身の進路を
取ることが許されるならば、
それは祝祭であるに違いない。

だから覚えておくべき最後のことは、
「物事を後ろ向きにしてはいけない」

自然とともに行きなさい。

上流へ行こうとしてはいけない。
生の流れとともに行き、
川とともに行きなさい。
川を押し進めたり、
自然を征服しようとしてはいけない。

どちらにしろあなたにはできないし、
あなたにできるのはそれを破壊することだけだ。
しかも頑張ってできるのは、
自分自身の破壊だけだ。
まさに、自然を征服するという考え
そのものが暴力的であり、
醜いものだ。  

勝利とは自然に反することではない。
勝利はただ、
自然とともに可能なものなのだ。
あなたは、自分自身を愛しては
いけないと教えられてきた。
それが純然たる事実のように、
真実のように見えるほどに、
繰り返し教えられてきた。
しかし自分自身を愛せない人は、
他のどんな人をも愛することはできない。

自分を愛せない人は、
まったく愛することができない。
あなたは利他的であるべきで、
決して利己的であってはいけないと
教えられてきた。
それは一見、
とても美しく見える。
だがそれがまさに、
あなたの根源を破壊している。

唯一、
本当に利己的な人だけが、
真に利他的であることができる。

なぜなら本来の自己の本性に
根づいていない人、
つまり利己的でない人は、
他の誰かについて
真に心配したりなどしないからだ。

もし自分自身の世話が
できないならば、
どうやって他人の世話が
できるというのだろうか? 
彼は自滅的で
当然、残酷になる。

OSHO