遊びに満ちる

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もしこの瞬間を真実に生きたならば、 あなたの未来はビューティフルなものであらざるを得ない。OSHO

未来や、
未来の生について
考える必要などない。
この瞬間で充分だ。
そして
過去のカルマを
思い悩む必要もない。
なぜならば、
リアリティの中に
そんなものは
何もないのだから。
それは
ただの記憶でしかない。
他の何ものでもないのだ。
過去の一切は、
ひとつの夢以外の
何ものでもなかった。
あなたは
眠り込んでいたのだから・・・。

それは
ちょうど眠り込んで、
夜の間に
自分が誰かを殺したという
夢を見るようなものだ。
朝、目を覚ますと、
その人は
ひどい罪悪感を抱く。
そこで彼はこう考え始める。
「どうしたらいいだろう?
 どうやってこのカルマを
 帳消しにしたらいいんだろう?
 人を殺してしまった!」
しかし、
夢の中で
誰かを殺そうが殺すまいが、
誰かを助けようが、
あるいは誰かを破滅させようが、
何も変わりはない。

あなたが生きて来た
過去の全てに渡って、
あなたは眠って生きて来たのだ。
あなたは醒めていなかった。
つまり、
起こったことは
全て夢にすぎなかったのだ。
だとしたら、
何もそれについて
思い悩む必要はない。
その心配の方が危険だ。

なぜならば、
それが夢に力を与えて、
まるでそれが
本当であるかのように
見せかけ続けることになるからだ。
それが夢にリアリティを
与え続けてゆく。

ちょっと自分が
その観照者であるのを見てごらん。
人間というのは
行為の主体ではない。
そしてカルマというのは行為、
何かをすることを意味する。
人間は行為の主体ではない。
全ては「起こる」のだ。
あなたの基本的な本性は、
ただの観照者、
ただの観客なのだ。
だから何ひとつ
帳消しにする必要などない。
それはもう帳消しになっている。

あなたは過去の重荷など
しょい込んではいない。
それはただ
記憶の中にあるにすぎないのだ。
もししょい込みたかったら、
それも出来る。
そうでない限り、
そんなものはどこにもない。
過去など存在しはしない。
そして
未来というのも存在しはしない。
からして、
過去と闘う必要などないのだ。
過去などありはしない。
あなたは影法師と闘っているのだ。
そしてそういう影法師と闘うことで、
あなたは何かごく実質的なもの、
何かとてもリアルなもの、
今の今リアルであるものを
ぶち壊しにしている。
この瞬間こそ
唯一のリアリティなのだ。
そして宗教的な人間とは、
このことを理解する人を言う。

過去は
もうすでに帳消しになっており、
未来はまだ生まれていない。
だからこの瞬間を楽しんで、
自分の存在が、
自分自身に真実であることを許しなさい。
なぜならば、
それが基盤になるのだから・・・。
これから起ころうとしている
あらゆる未来は、
今通り過ぎつつある。
こぼれ落ちつつある
この瞬間を通じて起こるだろう。

もしこの瞬間を
真実に生きたならば、
あなたの未来は
ビューティフルなもので
あらざるを得ない。
それはこの瞬間に基づくだろうからだ。
だから、
そんなことを心配する必要は何もない。
もしあなたがこの瞬間を
真実に、真正に、
愛に満ちて、祈りに満ちて生きたならば、
この祈りに満ちた瞬間の中から
次の瞬間が生まれ出るに違いない。

その中にはもっと強烈な愛が、
もっと強烈な祈りがあるだろう。
それはもっと
生き生きとしていることだろう。
その瞬間から、
また次の瞬間が生まれ出る。
だが、
あなたがそんなことを
考える必要はない。
そんな必要はないのだ。
なぜこの瞬間を無駄にする?

そして、真実でありなさい・・・。
時として、
もし腹を立てたくなったら
腹を立てるがいい・・・
何も間違いはない。
問題は、
もし腹を立てなければ、
あなたは愛することも
出来ないだろうというところにある。
あらゆる感情というのは
本当に一体のもので、
もし怒りを抑えたら、
あなたは
愛もまた抑えることになる。
もし怒りを抑えたら、
あなたは慈しみも抑えることになる。

もし慈しみを解き放ったならば、
突如として、
あなたは怒りもまた
解き放たれているのに
脅えてしまうだろう。
あなたは、
うず高く積った
自分の様々な感情の山の上に
坐り込んでいないとならない。
そして、
それではとても居心地が悪いだろう。
その全てを解き放つがいい。

Osho - Dance Your Way to God